研究旅行奨励制度実施報告

2022年 報告一覧

2022 中島咲良・中⻄玲奈

卓袱料理から⾒る和華蘭⽂化

私たちが⽣まれ育った⻑崎は、異国情緒あふれる街だ。⻑崎県には他県にはない独⾃の⽂化が存在している。それは「和華蘭⽂化」というものだ。この⾔葉は馴染みのあるものだが、その実態はあまりよく知られていない。この⽂化の代表の⼀つとして「卓袱料理」がある。多くの国の⽂化の影響を受けている⻑崎県は鎖国時代に唯⼀開けていた貿易港だった。そこで取引していた中国とオランダとの交流の歴史、貿易から「和華蘭⽂化」の始まりを、それぞれ学んでいる⽂化コースを活かして調べる。そして実際に⻑崎で「卓袱料理」を体験することによって新しい発⾒をすることを⽬的とした。

中原中也は宮沢賢治に何を見たのか__詩の生まれた場所を訪れて

中原中也、宮沢賢治は、ともに戦前の近代詩に重要な影響を及ぼした⼈物であるとともに、国語の教科書で扱われるなどして、今なお多くの⼈々に読み継がれる作品を遺した⼈物である。彼らは共に、豊かな才能を持ちながら、早くして亡くなったが、同時代を⽣き、影響を与えていた。この点は、⾮常に興味深い点である。賢治は、⽣前注⽬されることはほぼ無かったが、中也はその魅⼒に早くから気がつき、⼗年来愛読1し、何冊か買っ
て、友⼈の所へ持って⾏き2、賢治の死後まもなく、全集が発表された際には、「私⾃⾝が無名でさへなかつたならば、なんとかしたでもあつたらうけれど3」と述べるほど熱⼼に読んでいた。その⾔葉からも読み取れるように、中也が詩⼈としての道を決意し、様々な代表作を送り出すようになるよりも以前、創作初期の段階から、中也は賢治の作品に出会い、その影響を⼤きく受けていたことが分かる。
今回、研究旅⾏を通して、中也は賢治のどのような部分に惹かれ、影響を受けていたのか、実際に現地を訪れ、その⾯影と様々な資料に触れることで、⾃分の⽬で確かめたいと考えた。作品のモチーフになった場所を、⾃分の⾜で歩くことによって、彼がどのような思いで創作に向かっていたのか、理解する⼿助けになるのではないかと考える。また、「中原中也を読む会」に参加したり、学芸員の⽅にお話を伺ったりすることによって、より理解を深めると共に、彼の詩がどのように⼈々に受け容れられているのか確かめたい。

「米粉」と新たな食の融合、また大衆化について

⽶粉は本来⽇本の伝統的な菓⼦に使⽤されてきた。⼩⻨は、パンやパスタ、ピザなどの洋⾷や洋菓⼦に多く使⽤されており、⽇本国内でも⼤変親しまれているが、最近、ウクライナ情勢や円安により、⼩⻨の価格が上昇している。しかし、⼩⻨の価格は国際情勢に⼤きく影響されてしまい、それはそのまま私たちの⽣活に影響を与える。⽇本国内で1年間に消費されている⼩⻨のうち国内産はわずか13%であり、近年、⼩⻨の代替として⾃給率が⾼い米を精製した「⽶粉」が注⽬され、政府も国を挙げて、国内外における⽶粉の普及を推進している。本研究は、国内外で⽶粉を販売する企業、および⽶粉を使⽤した⾷品を提供するレストランや菓⼦店を訪問し、⽶粉に関する事業展開の現状と課題を調査し、それらの意義について考えることである。

⾹椎宮を訪れた天皇の遣い「勅使」について−−−全国の勅祭社と⽐較して

実家の近所にある⾹椎宮には10年に1度、天皇が派遣する使者「勅使」が参向する。『続⽇本書紀』によると最初に⾹椎宮に勅使が参向したのは天平5 年(737年)で、その後伏⾒天皇の御代には戦乱のために中断されたが、延享1年(1744年)に再興されて以来は、60年に1度、⼤正14年(1925年)以後は10年ごとが勅使参向の年になった。⾹椎宮のホームページでは、これまでに勅使が参向した回数は108 回とされている。勅使が参向したときに⾏われるのが勅祭で、これが⾏われる神社は伊勢神宮を始め、全国に17社しかないため、⾹椎宮は⼤変貴重な神社である。その事実を⾹椎宮について調べる中で初めて知った。
そこで今回の研修旅⾏の⽬的は、勅祭が⾏われる神社の中で最も格式が⾼いとされている伊勢神宮がある三重県、全国に17 社ある勅祭社のうち近畿地⽅にある7 社の上賀茂神社、下鴨神社、平安神宮、橿原神宮、春⽇⼤社、⽯清⽔⼋幡宮、近江⼋幡宮、そして勅使発遣の儀が⾏われる宮内庁がある東京都を訪れることで、現地の⼈々にとって勅使はどのような存在で、勅祭はどのような儀式であったのか、勅使として訪れたのはどのような⼈々であったのかを多⾯的に調査し、⾹椎宮との共通点や相違点を⾒つけ出すことである。また、交通網が発展した現在は勅使の移動はもちろん楽になったはずだが、当時は相当な時間と費⽤を費やしたに違いない。そのような点についても、実際にそれぞれの勅祭社に⾜を運び調査を進めたい。そして、今後研究していきたいと考えている、江⼾時代に⾏われた⾹椎宮の勅祭での⿊⽥藩の対応や⾹椎の⼈々の対応に関して、⾃分なりの仮説を組み⽴てる⼀歩にすることを⽬的とする。

江⼾時代の越中富⼭売薬

富⼭の薬売りの始まりは「江⼾城腹痛事件」と⾔われている。これは江⼾城内で、突然激しい腹痛に⾒舞われた三春藩の藩主である秋⽥輝季に富⼭藩⼆代藩主の前⽥正甫公が常備していた反魂丹を与えたところ、たちまち痛みは治まったという事件である。噂を聞いた諸藩の⼤名たちがそれぞれの領内で売薬を依頼したことによりこの薬が名を馳せることになった。当時⾼価だった薬を「先⽤後利」と呼ばれる、先に薬を預け、後から利⽤した分だけの代⾦をもらい、新しい薬を補充する販売⽅法で富⼭の薬は全国に販路を広げていった。そこで当時の配置薬はどのような箱に⼊れられ、どのように運ばれたのか、実際の資料を⾒て体験してみたいと考える。また、どのようにして富⼭から全国各地へ薬を届けていたのか、地理的条件から調べてみたいと考える。前⽥正甫公が持っていた反魂丹が全国に広がったのは有名な話だが、なぜ前⽥正甫はよく効く薬を作り、持っていたのか調べたい。また明治時代に⼊ってきた⻄洋医学にも劣らなかった理由を史料から考察する。さらに、配置薬販売業者は訪問先に薬を渡すだけでなく、産物や地域の様⼦などの情報を他の地域紹介する役割を担っていたようだが、具体的にどのような物が産物とされ、どのような情報を仕⼊れ、他の地域に渡していたのか興味があるので明らかにしたい。また、この働きで富⼭はどう変
化したのかを明らかにしたい。

グリーンツーリズムによる⼈々の交流や地域資源の活⽤

⽬的は、戦後の⻄欧社会を発端とし、滞在型余暇活動として⽇本でも社会的関⼼が⾼まっているグリーンツーリズムの多⾓的な活動や地域資源の活⽤を調査することである。また、この調査では、現地体験とともに地元の⽅々のお話を伺った。
私が今回調査対象として選んだのは、⽇本の農泊(グリーンツーリズム)発祥の地である⼤分県安⼼院町(あじむまち)である。安⼼院町では、「NPO法⼈安⼼院町グリーンツーリズム研究会」が中⼼となって活動を⾏っている。
特に、NPO法⼈の活動を通して、[1]安⼼院町での農泊、[2]研修プログラム(講話)、[3]外国
とのつながり(ヨーロッパ研修・外国⼈観光客)に注⽬して調査を⾏った。

テーマパーク建築における建築の意匠とその効果 ―リトル・マーメイドとマーメイドラグーン―

本研究の⽬的は、⼩説や映像作品等を元に制作された三次元の装飾が持つ機能やその意図について考察することである。マーメイドラグーンの装飾を写真や動画のみで観察・研究することは不可能であるため、現地で実物を直接観察あるいは体験し、分析のための資料として撮影することで研究対象への理解を深め、新たな視点からの独⾃の考察を提⽰することを本研究旅⾏の⽬的とする。

対⾺における⽇韓交流の礎と実態を探る ―朝鮮通信使を中⼼として―

古代より⾏われていた⽇韓の交易だが、豊⾂秀吉による朝鮮侵略後、⽇本は朝鮮との国交を断絶する。江⼾時代になり、朝鮮との国交回復をはかるべく⽇本側から韓国側に派遣を打診し始まったのが朝鮮通信使である。1607年から1811年までの約200年の間で12回に亘って来⽇し、主に⽇本の将軍襲職祝賀や⽂化交流を⾏うなど⽇本と朝鮮の友好関係の維持を担い、対⾺藩は江⼾幕府と朝鮮王朝の仲⽴ちとなっていた。朝鮮通信使を通して朝鮮から⽇本へ絵画や書、医学などが伝わった中で、⽇本から朝鮮に持ち帰られ現在にも残っているものがあることに興味を持った。1764年に来⽇した朝鮮通信使の正使趙厳が持ち帰った「サツマイモ」はその⼀つで、「고구마(読み:コグマ、意味:サツマイモ)」という韓国語は対⾺の「孝⾏芋」が訛って呼ばれるようになったとされている。これらのことから、対⾺における朝鮮通信使の歴史や⽇朝⽂化交流の証と⾔えるサツマイモについて卒業論⽂の執筆を⾏う中で、現地調査する必要を感じたため研究旅⾏を⾏う。